原 因 と 結 果
この地球上におけるテクノロジーの進歩には目を見張るものがあり、科学技術、工業技術は発展に次ぐ発展を遂げ、私たちの生活はますます便利になった。
また多くの分野で、それぞれの技術が飛躍的な進歩を遂げ、人間の生活を豊かにしてきた。そういった領域においては、人間の頭脳を最大限に発揮し、努力を惜しまず、知識の量を拡大させ、進歩をさせてきたのは間違いのないことであるが、では、人間側はどうか。
人類は人間として進歩したのか、進歩しているのか。人間の進歩とはもちろん内面、精神面のことである。残念ながら人間の精神や意識の進化・向上も無く、人間自ら成長し進歩する意思も努力も皆無と言えよう。
人類は誰一人として、本当の(真の)努力はしていない。皆「苦労して、苦労して、一生懸命努力して艱難辛苦を乗り越えて
人生を生きている」が「一瞬一瞬を真剣には生きてはいない」。一生懸命努力をして、自分の描いた目標や夢を実現させ、結果は出せるであろうが、それは真の結果とは言い難い。「一生懸命(生活の維持もしくは改善、目標達成、願望実現のため)」と「真剣(一瞬一瞬をより高い次元の自分に導くための努力)」には天と地ほどの差がある。
一生懸命に努力をしている人は大勢いるが、その人の目標や夢の動機に、物欲、名声欲、名誉欲、権力を得るため、高い評価や称賛を浴びるためなどの野望、野心、自分が利を得るためのものであり、そのための努力であるならば、それが実現したとしても、その栄光は長くは続かない。それは、泡と消えゆくはかない「富」と「成功」であり「栄光」である。
「動機」「出発点の位置」「優先順位」を間違うと、すべての物事の展開が狂っていく。努力しているつもりでも、すでにその努力の方向が違っている。
己の表面を飾る「知識」の習得量の拡大には熱心だが、内側にあるべき「知性」のかすかな香りすら感じられない人間で溢れているその現実が「人類には、輝く未来の到来は期待できない」ことを確信させる。
たとえどんなに学問や研究を究めても、どの分野におけるプロフェッショナルでも、最高峰に君臨していても、知識が誰よりも多く、技術に優れ、有能、優秀と言われても、だからといって、その人間に真の「知性」が備わっているわけでもなく、世間から「一流」のラベルを貼ってもらっても、その人間の「知性」が高いわけではない。むしろ「真の知性」は見当たらない。あるのは強い「自己顕示欲」と「優越感」である。
「知識」があるからといって「知性」があるわけではなく「一流」だから「知性」が高いということにはならない。「知識」で「知性」は高まらない。「知識」で「知性」は磨けない。「知識」と「知性」は完全に別物である。
また、世間のいう「一流」とは、マスメディアの商業主義にとって利用価値があり、利用しやすいだけの存在であって「一流」という響きに弱く「肩書」や「権威づけ」でしか人や物を判断できないレベルの人間たちがもてはやすだけの意味しか持たない。「一流」の定義もあいまいで、根拠も裏付けも無きに等しく、本物の一流の人間にとっては、何の意味も持たない「一流」である。
この「一流」と言われる人たちの多くは、己の損得を第一優先にしているので、そのためには、中身がなくても中身のあるふりをして自分を「大物」「一流」に思わせる努力を惜しまない。
自分が身を置く(専門分野の)狭い世界における経験・体験から知り得た「知識」と、その人の「フィルター」を通して見ている「事実」や「現実」がすべてであり、それだけが「真実」であって、それ以外の「真実」は存在しないと本人たちは信じて疑わない。また意味のない問題に持論をまくしたてる自分に酔っている人たち、言うだけでその責任を取らない気楽な「評論家」やその類の人たち、無知で幼稚な指導的立場の人間も多い。
そういった人たちが、名を馳せ「本者(ほんもの)」や「一流」の顔をして放つ影響力は大きく危険なものであり、人々を惑わせ、誤った方向に導いているのであるが、それを見抜けるはずもなく、逆に、称賛し、追従しているのが一般大衆である。
どの分野においても「本者(ほんもの)」は「真実」を目指す。「真実」を追究する。現在の自分に満足せず、常に向上・進歩をしている。永遠に続く「完成への道」を行くのであって、一流と言われようが言われまいが、そういうことに意識はいかない。己に「揺るぎのない信念」と「絶対なる自信」があるからだ。「人類の意識を高める責任」があることを「自覚」している。己が会得した知識をひけらかすこともなく、その知識に溺れることもない。不要となった古い知識を捨て去り「知識のバージョンアップ」の努力を怠らない。己の思考、言動、行動にミスは存在しない。己の進む方向を間違えることもなく、進むべき道を見失うことも絶対にない。それが「本当の本者(ほんもの)」であり「知性ある一流の人間」である。⇒ 知性
人類全体の「知性」が低下し、その結果、人は「自分で考える」ということをしなくなった。否、考えることができなくなった。「考えない」「考えたくない」「考えることが出来ない」ので、自分で答えを出せないのだ。扇動されやすく、皆が良いと言えばそう思い、同じものを選び、同じ行動を取る。流行り廃りにも敏感に反応し、熱しやすく冷めやすい。
世界情勢、国際問題、政治・経済、社会問題をはじめ、私たちに知らされるどんな情報であっても、ほとんどの人は、見たこと、聞いたこと、読んだことをそのまま信じ込む。自分でそれが真実か真実でないのかを判断することが出来ない。目の前に現れる映像 - 部分や結果だけを見る(知る)たびに簡単に騙され信じてしまう。その情報を選別し分析することもない。視点・論点も最初からずれており、枝葉末節にとらわれ、大局をつかむことが出来ない(全体像が見えない)。自ら更なる情報を探し出す方法もわからないので真の情報に到達することが出来ない。
その問題のそもそもの原因や理由がわからない。何故その問題が起きたのか(起こされた、誰によって、何故、何のために・・・)、その裏に隠された「真実」を知ることもない。知る由もない。知りたいとも思っていない。「本当の真実」なのか、それとも「意図的に作り上げた事実」を「真実」としている(誰が、何故、何のために・・・)」のか、あるいは「善なのか」「悪なのか」正しい判断が出来ない。情報そのものを鵜のみにし、自分たちが知る(目に見える)事実を「己の感情」「間違った正義感」で「善・悪」を決めてしまう。そのたびに一喜一憂し、振り回されていく。
専門的な地位や立場にいる人間であろうと一般の人間であろうと「自分たちの理解の範囲を超えるもの」「自分たちの常識の範疇を超えること」「自分たちが主張してきたことと相反すること」「自分たちの信じてきたことが覆されること」「自分たちの領域が侵されること」「自分たちが利益を失うこと」などには決して聞く耳を持つことはなく、認めることを拒む。否定することで必死に己を守ろうとする。彼らにとって「真実」かどうかは問題ではなく「真実が出てきては困る」「本者(ほんもの)は出て来ないで欲しい」それが彼らの本心であり、自分たちの居場所(地位や立場)がなくなってしまうことを最も恐れている。
「自分(自分たち)にとって都合のいいこと(人)」が「真実」であり「善」であり「本者(ほんもの)」とする。「自分(自分たち)にとって都合の悪いこと(人)」はすべて「偽り」であり「悪」であり「偽者(にせもの)」にする。自分(自分たち)の身を守るために。
人類の、人物と物事に対する「判断基準」もいい加減なものであり「真実を見る目」も無きに等しい。
「真実」は常に後ろに隠れている(隠されている)。
人類は学ばない。人類は、歴史からも自分たちの経験・体験からも学ぶことをしない。学ぼうとしない。というより、学ぶことが出来なくなったとも言える。何度でも同じ体験を繰り返しながらただ人生を生きている。
自分たちに直接降りかかり、大きく変化をさせられ、苦痛を伴い、不便な生活を強いられる状態に置かれ続けたとしても、ほとぼりが冷める(または状況が少しでも好転し始める)と、もう気持ちが緩み出し、また遊びたくなってくる。その繰り返しを永遠に続けている。
己を省みることなく、己を高めることもなく人生を送り、意味のないこと、価値のないものに反応し、関心を持ち、大騒ぎをする。
彼らは、自分の意識を下げ、自分自身を貶め、最後には自分という存在そのものに意味も価値も無くさせてしまうこと、意味のないもの、必要のないものに時間とお金を使い続けている。
人間としての成長を止め、自分たちを堕落させるとは考えもしないものが、自分たちにとっては素晴らしく、最高であり、美しく見え、聞こえ、感じ、その時にその時の感情が満足さえすれば、幸せなのである。
「己を貶める」「己の意識を下げていく」だけの、存在意味のないもの、存在価値のないものに、最高の意味と価値があると思い込み、貴重な時間とお金を、惜しみなく喜んでふんだんに使う。自分にとって何よりも大事であり、宝物であり、生きがいとなり、その取得や達成が第一の目的となり、そういったもので自分を囲んで自分を守る。それがその人たちの「人生」なのだ。
レジャー(娯楽の類) ー スポーツ、映画、TV番組、イベント、音楽、コンサート、ゲーム、趣味、行楽、(観光)
旅行、その他余暇の時間に楽しむ類のものを、人間がその人生において経験するための「一通過点」として捉えていくのであれば、その存在の意味はある。
また、内容、質によっては有益なものも存在するが、問題は、その娯楽の類を優先順位の第一番目に位置づけ、その内容、質に目を向けることなく、それ自体にどっぷりと浸かってしまっていること。一生をそのためだけに生きている。「人生を楽しむ」 「楽しむために人生がある」 「もっと人生を楽しまなくては」 が人生の目的となり、人間の方が、そういった類のものに隷属しているかのような人生になっていること。
人類は「遊ぶこと」しか頭にない。娯楽の類にしか関心がない。「生きる」ことの本当の意味を知ろうとも理解しようともしない。本能のままに生きることが楽しいのだ。言い方を変えれば「子供から大人に成長したくない、いつまでも子供のままでいたい」ということである。
そういう人たちは「何かがおかしい」「今の生き方でいいのか?」「真実を知りたい」「真実はどこにあるのだろう
?」また、今自分が好きで楽しんでいるものや、選んでいるもの、一生懸命にやっていることが「本当に意味のあるものなのか?」「それを毎日続けることに何の意味があるのだろうか?」「それは自分の人生に絶対に必要なのか?」などと自問自答することもなく、人生について考えることもない。あてどもなくさまよい続ける人生を選び生きていることに「疑問」も「危機感」も持つことはない。
現在の自分自身の運命、周囲の状態、社会の状況にも「こんなはずでは・・・」「どうしてこうなってしまったのか」「はやく元の生活に戻りたい」その繰り返し。己の生き方が招いた結果であるとは思いもしない。「真の反省」がないから繰り返す。
「真の反省」 - それは「その経験・体験から間違いを学び、その誤りを認め、生き方が変わり、それによってより高い自分に導くことが出来た」ということである。「ああすればよかった」「こうすべきだった」と後悔することでもなく、自分を責め続けて心を暗くすることでもない。「反省の言葉」をいくつも並べ立てることでもなく「反省」という言葉を連呼することでもない。
「反省」に時間はかからない。一瞬の気づきが、その人の生き方の「軌道修正」「進路変更」に繋がる。それが「本当の反省」となる。
心の羅針盤を失ってしまった人々。生きることの明確な目的を持たず、目標の設定も出来ない人々。自分の努力の方向がわからない人々。心の中はいつも不安であり、本当の自信がない。それを打ち消すためにも、自己弁護・自己防御を繰り返し、人生を刹那的に生きるようになっていく。一時の感情の満足を求め続ける生き方しかできなくなる。自分を騙し、人を騙し、自分を誤魔化し、表面を取り繕う。
「意味のないもの」「必要のないこと」に時間を使い、一生を使って人生を終わる人間ばかりである。「意味のないもの」「必要のないこと」が「どれほど意味のないものであるか」「どれほど必要のないことであるか」人類はそれがわからなかった。
人類は生きる方向を見失い、生きる目的も無く、心が盲目になってしまい、何も見えない、何も聞こえない。ただ、あてどもなくさまよい続ける。
「自分は何のためにこの地球に存在しているのか」考えたことがあるだろうか。己の「存在の意味」「存在の目的」「存在の意義」「存在の価値」 人間が人間としてどう生きるか、を真剣に考えたことがあるのだろうか。
人類の一人一人が明確な人生の目的を持ち、目標を正しく設定し、正しい選択と正しい優先順位の下、努力の方向を間違えずに、意志力を持って「真剣に」生きてきたのであれば、私たち人類は現在のこの状況下にいるはずがない。
物質文明の発展の下でわが世の春を謳歌してきた人類は、本当はお金も含め「物質」というものの本質は知らない。物質そのものを真に理解はしていない。物質に対する無知さから、物質に重きを置きすぎたが故に、物質を求めすぎて、人間の方が物質欲、物質的、即物的、物質主義に陥るのであって、物質そのものは何も悪くない。物質に罪は無い。人間の物質に対する捉え方、考え方、扱い方、活かし方が間違っていたのだ。
お金も物質も本当に有難いものであり、この世界においてはそれが無ければ人間は生活していけないが、感情の満足のために物質を利用し、物質生活を優先しすぎた結果、今や俗物の極みとなっている人間の多くが、人生における己の行く道を間違え、自ら袋小路に迷い込むが如く、その道を進んでいる。
大規模な災禍に見舞われたことでたくさんの人たちが苦しみ、悲しみの状態に追い込まれたり、悲惨な状態、多くの人を死に追いやる事態が起きても、被災者以外の人間にとって、自分に直接被害が及ばない限り、それは対岸の火事であり、同情はしても、すべてが結局は他人事(ひとごと)である。
他の国で戦争や内戦、テロや紛争などが起き、それによって多くの犠牲者が出ると、その度にその時だけ、自分たちのいる安全な場所、痛みを伴わない守られた環境の中で「平和! 平和!」を叫び「戦争反対!」「テロに負けるな・・・!」といった言葉を掲げたデモ行進、チャリティコンサート、イベント、セレモニーなどが催される場所や会場に大勢の人たちが参加する。しかし、そういった行動や行為によって戦争やテロが止み世界が平和になるわけではない。それは単なる自己満足のための偽善的なパフォーマンスで終わってしまう。その先が無い。
また、支援活動(人道支援)と称して、実際は、その人たちに届かないこと、あるいは届いたとしても、意味のない、何の助けにもならない、一時的なその場限りの「きれいごと」「役に立たない中身のない善意」ともいえるような、問題の解決とは程遠い、見当違いな行動をする人たちも少なくない。
どんな問題においても、善意による行為や行動は、もちろん、しないよりしたほうがいいに決まっている。当然である。しかし、その小さな善意がたくさん集まっても、その問題の本当の解決には決して結びつかない。そこには真の問題解決の方法が存在しない。「自分たちはいいことをしている」「正しいことをしている」という思い込みもあり、本人たちはそのつもりはなくても「善意の押し付け」になる場合がある。
「無知なる善意」「中途半端な正義感」による行為や行動は、問題そのものを分散させ、解決への道を遠ざける。
人類の99.99%は、皆、傍観者であり、無責任な人たちで、自分の置かれている現実、自分と直接関係のある問題以外には関心がなく、自分たちはいつもの通り、いつもの生活を楽しく続けていくことができること、そのことしか頭にない。立場が入れ替わっても、それは全く同じである。
人類は、一言で言うと「自己中で、わがままのし放題」を続けてきた。その結果が「現在の人類と世界の姿」である。「結果」が出てしまっても、人類は何も変わらない。
このままその生き方を続けていけば、自分たちの未来がどういう未来になるのか、どういう未来が待っているのか考えもしなければ思いもしないのであろう。「生き方を変えないということは、自分たちの未来(「運命のトータルの結末」)がどうなろうと構わないということになる。
「現状維持の生き方(感情に支配された生き方)」の行き着く先は最低の結果しかない。「現状維持」に未来は無い。
今や無秩序の世界と成り果てたこの地球で、己の意識を高め、人類の意識を高めるために立ち上がる人間は皆無に等しい。
人類は、肝心なことに注意を払わず、人類にとって最重要課題が何なのかを考えることもなく生きてきたのであり、為すべきことをせず、自分達の都合のよいことだけを最優先にしてきた結果、今の人間の有り様は修復不可能な状態となってしまい、地球の危機的状況も、地球自体が支えきれず、その限界を超えようとしている。
どんなものにも両極が存在し、宇宙全体がそのバランスで保たれているのであれば、私たち人間の世界においても、この極端に不均衡な状態が長く続くはずもなく、ありとあらゆるものが崩壊していくのは必然であり、現在が、正に今が、その結果の始まりである。それでも人類は目が覚めない。それでも、人類は遊びたい。
今、人類の一人一人が「希望」か「困難」かの選択を迫られている。生き方を変えれば「希望」が、生き方を変えなければ「困難」がその人を待っている。
知 性 と 叡 智
己のDNAの中に、己の意識の成長のためのすべてがある。人間が行くべき、そしてたどり着くべき道を知ることができる。
1. 知 性
『思考力』『理解力』『判断力』 に優れた能力
1. 己のDNAを真に理解する(己自身を知る)能力
2. 人類のDNA(生命の基本であり、より高い次元に成長していくための高度なプログラム)を理解する能力
3. 「真実」を知り「真実」を理解する能力
4. 現実を直視し、物事の「本質」を見極める能力
5. 正しい優先順位の設定における正しい状況判断に秀でた能力
6. 建設的にものを考える能力
7. 論理的思考と現実的思考の正しい使い分けができる能力
8. 大局的に問題を見て、考えて、先を読んで的確な判断を下す能力
9. 出来事の「本当の理由」を見抜く能力
10. 発しようとする自分の言葉が、その状況をプラスに展開させ、結果に繋がる言葉か、単なる己の感情の満足のために発する言葉かを瞬時に見極め選別する能力(口に出す前に、その言葉を発した後どういう状況になるか先を読むことができる - 無意味な言葉を発しない)
11. その人物の「人間性」を見抜く能力
12. 「善」と「悪」が存在する理由と両者の「役割(働き)」を理解する能力
13. 「美」と「醜」が存在する意味を理解する能力
14. その人物に対する既成概念や先入観を持たず「本者(ほんもの) − 真の知性と真の自信の裏打ちがある人間」か「偽者(にせもの) − 上辺は立派でも、実際には中身のない人間」かを見分ける(見抜く)能力
15. 己と人類の意識を高めることを除いて、他のすべては「無意味」であり「無価値」であることを理解する能力
2. 叡 智
〇 高め上げていく己の「知性」を通して「より高い完全」「終わりのない完成」「終わりのないゴール」に向けて「進化・向上・拡大」を続ける「宇宙」の「真実(深遠なる叡智)」の片鱗を垣間見ることを可能とする能力
〇 無限に段階がある「知性」と「叡智」。どこまで己の「知性」を高めて「深遠なる叡智」を我がものとすることができるか。自分はどこまで成長していけるか。その努力の中に真の喜びがあり、その喜びに終りはない。
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私たちの前には「成長していくか」「後退していくか」の二つの道しか無い。人生は一瞬一瞬の連続から成り立っており、その一瞬一瞬の中に「常に前に向かって進み、上に向かって(意識を高める)努力をしていくか」あるいは「感情の満足を優先し、惰性的な現状維持の生き方を続けるか」の二つの選択肢が存在し、人間は常にそのどちらかを選択しながら生きている。
その一瞬一瞬の大切さに気付くか否か、大切さに気付いた上で、自分の成長に生かすか否か、その小さな選択を積み重ねることにより、成長するか停滞(後退)するかの決定を下している。
己の意識の成長(意識の進化・向上)を希求する人間は、自分の成長に生かすべく選択を瞬時に行い、その選択の積み重ねが「未来の今(現在の自分)」の時間軸を生きていくことを理解している。
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人間の出す感情想念(正の感情エネルギーと負の感情エネルギー)は完全に蓄積されているのであり、それによって運命が形づくられていく。今までその人間が出し続けてきた「感情想念の集合体」が、その人の「現在の運命」の大本を成している。
己が過去から出し続けている負の感情想念(負の想念エネルギー)に打ち勝ち、己を正の感情想念(正の想念エネルギー)で満たすこと以外に、意識を高め、運命を変えていく方法はない。
意識を高め、進化させる − 私たちが意識を変え高めることができれば、あらゆるものの中に存在する「真実」に目覚めることを可能にし、本当の、真の優先順位を知り、どんな問題でも解決する方法を見つけることができるでしょう。この「無秩序な世界」を「秩序ある世界」に変えることができるでしょう。
Updated on 1 October 2024.
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代表 須佐 章子
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