宇宙は終わりのないゴールに向かって絶えずスタート(再生/出発)している。
宇宙の根源は、無限に続く高次元の意識の集合体。始めもなく終りもなく、永遠に進化・向上・拡大を続ける宇宙に静止しているものは一つも無い。
どこまでも続く宇宙。無限に広がる宇宙。宇宙に「果て」は存在しない。宇宙に「無」は存在しない。絶対にして完全なる「意識」が存在する。
宇宙は「意志を持ったエネルギー」で出来ている。宇宙に無いものは無い。もともとあらゆるものが宇宙に存在している。
宇宙は想念エネルギーの活動の場。
人間の一生は、この宇宙においては、瞬きにもならぬ程に短い。
この宇宙には完全な自由は存在しない。ある一定のルールを守る「責任」を持つことで自由を得る。
宇宙は「責任」で成り立っている。しかし、人類は責任を取らない。
私たち生命の目的は「絶えることなき永遠の進歩」である。
「生きる」ということは、進化することである。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力する(意識を成長させる)ことである。
人間は「学ぶ」ことで自分を成長させることができる。人間は学ぶために存在している。毎日が学ぶ人生でなければ意味がない。
己の意識を導き上げよう(高め上げよう)と努力する、その努力の中に喜びがあり、その喜びに終わりはない。
己の意識を高めることに意識が集中すると、それ以外は無意味なものであることを知る。
あらゆる苦難に立ち向かう、その苦しみのるつぼの中から人間は克服する道を学び、真の不滅的存在へと自らを高める努力をすることによって、永遠に進化・向上していかねばならない。
人類の意識の成長のために自分は為すべきことをする。高い目標に対しての絶対なる自覚、責任そして強い意志力を持っているか。中途半端なものではすぐに挫折する。
人生は一瞬の通過点の連続。人間は永遠に前に進んで行かなければならない、上に昇って(成長して)いかなければならない。そこに留まることは己の魂(己の本体)の成長を止めことである。
自分が成長したいという決意、実行する意志力、自覚と責任。
人間はどこまでも進んでいける、どこまでも成長できる。
一度経験したこと、経験した過ちは2度と繰り返さない。学んだら次のステップに進む。
意識が無ければ、人間はただの機械にすぎない。
魂(己の本体)が一定の成長を遂げるためには、それ相当の苦難が伴う。魂(己の本体)を成長させるという目的意識があれば、困難も苦痛には感じない。
生きていく上で、魂(己の本体)の成長、意識の向上を妨げるものは「己を騙す」「己をごまかす」ということ。
「真剣に生きる」(真剣に己の意識を高めようとする生き方)ということができると、結果としてこの世の悩み苦しみは一気に解決して消えてしまう。人間は逆のことをしている。
真剣さの中に常に喜びがあるか。真剣ということは喜びに満ち溢れている。
「間違い」を学ぶため「間違い」を正すために我々人類は存在する。どれだけ己の、そして人類の間違いを正すことができるか。それが私たちがこの地上における生きる目的であり学習課題である。
自分に起きるすべてを完全に理解し無条件で受け入れる。どんな経験も自分の内的成長のための一時的な踏み台にすればよい。
因縁因果 / 因果応報の渦の次元を脱出しない限り、真の己を確立することはできない。
どの経験も魂(己の本体)の成長にとって教訓となるものであり、どんな経験・体験も、より強靭な魂(己の本体)にするための訓練なのである。
一瞬一瞬を己の意識を成長させることのみに全神経を集中させる。己自身との壮絶な戦いが続く。
一瞬一瞬を真剣に生きるということは、その時、その場の状況判断の正確さ、的確さを持ち、正しい優先順位に従って行動するということ。完全にそれができる人は「人生のプロフェッショナル」となり、それができない人は「人生のアマチュア」のままである。
己の「意識」が今いる三次元の世界を脱出(できるほどに高まることが)できた時に、初めて「魂(己の本体)」と「肉体(感情想念)」が真の喜びに到達できる。
人間は目が覚めてから寝るまで己の魂(己の本体)を裏切り続けている。
「現状維持の生き方」の行きつく先は最低の結果しか無い。「現状維持」に未来は無い。
この世の最大の罪は「無知」である。無知なるがゆえの言動、行動が更なる罪を重ねる。
善人のふりをした人間が多すぎる。きれいごとを言うだけで、立ち上がらない、行動を起こさない、実行しない善人は存在の意味がない。言葉だけの善人はいらない。
発するのは喜びの言葉だけに徹すること。マイナスの想念を出さない。意味の無いことに意識を持っていかない。
捻じ曲がった心で物事を見ると、真実が見えなくなり、結局は自分を苦しめる結果となる。
答えは無限にある。しかしその人の意識レベルに沿った答えしか出すことができない。それは間違いではないが、正しいということにはならない。
多くの人が考える真実 - 自分にとって都合の悪いことは真実ではなく、自分にとって都合の良いことが真実なのである。
その人の語る「真実」というものは、その人のフィルターを通してのものであって、本当の真実ではない。
自覚・責任・自信 - どれか一つでも欠けていれば何も成し遂げられない。
己の意識が宇宙大に広がらない限り、何も見えない、何も聞こえない。何もわからない。
これが答えだという答えはない。成長したら成長した分だけの答えを得ることができる。
「最後の答え」「絶対なる答え」に到達することはできない。それゆえ、人間は永遠に成長できる。人間の意識の成長に終わりは無い。
この宇宙で、すべてにおいて納得するという答えに到達することはできない。
「納得する答え」「正しい答え」はその次元においてはそうであるが、次の次元においては正しい・正しくないという以前に、それらはすでに過去の答えになってしまう。
成長した人間にとってはその答えは低すぎるというだけ。過去のもの、過去の答えであり、今この瞬間における正しい答えではない。
自覚できる意志力を早く持つこと。自覚していないから責任が持てない。責任が無いから成長しない、成長できない。経験・体験から何も学べない。
「絶対なる自信」それが基本。自分に自信が無いから他人の真似をする。
多くの人間は自分独自の目標が無いから不安でしかたがない。そういう人間は自分独自の高い目標を設定していない。
人は魂(己の本体)の成長を妨げることばかりをしている。
己を疑わない。人間はいつも疑いの心で生きている。
他人の創った道で「己の意識」は絶対に成長しない。人間は独力で進歩を遂げなくてはならない。自分が切り開き、自分で道を創らなければならない。
知識は学ぶものではない。知るだけのものにすぎない。しかし、知っても意味の無いことを人間は知りたがる。
自分の周りのどの次元のものに反応するか。自分を高めていれば、おのずと高いもの(人)に反応するし、低ければ低いもの(人)に反応してしまう。
この地球に「仕方がない」という場所(道理)はない。すべてに明確な「理由」が存在する。
不条理な体験そのものに意味があるのであって、その理由付けはいらない。納得する必要もない。その体験を通して成長した度合い(意識レベル)によって理解できる内容が違う。答えを先に知ってしまったら、その人間は存在の意味を持たなくなる。
人は己の魂(己の本体)の嫌がることばかりをしてきた。己の成長を妨げてきた。
己の感情想念を優先しているから、今この瞬間に結果を出せない。
自問自答 - 最高の自問をした時に最高の答えを自ら得ることができる。
人間は、魂(己の本体)の成長になる困難を避ける。彼らは苦痛のない自由を望んでいる。
自分の過去を直視する。自分が引き起こしたことなのに、それを見ようともしない。過去から学び、生き方を変える。
想念はエネルギー。表現するためにある。
エネルギーの原点 - 想念による創造力。
最高の想念を使えば、最高の自分を創り上げることができる。しかし、人間は皆、最低の自分を創り上げている。人間の多くは常に破壊の想念を出しているからである。
感情をコントロールできれば、想念を正しく使うことができる。不安は感情想念、喜びも感情想念。
自分の意識を高めることだけに想念を使う、使いこなす。最高の想念エネルギーを使うことができれば、為すことすべてが最高のものとなる。
自分の想念の中の不純物を取り除く。
結局は状況が変わらないことを知りながら、自分の感情的な満足のための言葉を発するのはやめること。
想念の素晴らしさと恐ろしさがわかったら、瞬時にその人の波が変わる。自分の想念に責任を持つようになったら、運命は変わる。
本物の想念は自分を貶めない。自分を取りまく偽の想念に騙されないこと。
人間の生活には、ネガティブな感情思考とポジティブな感情思考が常に交差している。私たちは、どちらの感情的思考を選んで生きていくか。
人間はきれいな想念のみで生きていくことは難しいが、少しでもその汚い想念を減らすことはできる。
人間の出すマイナス(破壊的な)の感情想念エネルギーは放射能と同じである。それが一番おそろしい。
自分の想念を正しくコントロールできれば自分の運命は必ず変わる。
想念がなければ人間そのものが存在できないし、何も創り出せない。
想念は包丁と同じ。使う側に責任がある。
最高の想念だけが自分の想念であることを自分に宣言する。
最高の感情想念とは己の魂(己の本体)の成長を願う想念。
自分の想念に全責任を持つ。自分の想念に責任を持つようになったら運命は変わる。
宇宙は想念の鏡。必ず自分に戻ってくる。出した想念は何倍にもなって自分に戻ってくる。宇宙を巡回して戻ってくる。
宇宙を駆け巡る想念。自分の出した想念が宇宙を駆け巡り、蓄積され、結局は自分に戻ってくる。出した想念に運命が翻弄される。
どんな苦難にあっても魂(己の本体)は傷つかない。傷つくのは感情と体。
感情想念をコントロールできないから此処に留まざるを得ない。感情想念をコントロールできない人は永遠にこの物質世界を卒業できない。
想念は具象化、具現化するためにある。
感情をコントロールできれば想念を正しく使える。
想念が常にふらふらしている人は絶対に結果を出すことはできない。想念との壮絶な戦いに勝利した人間のみに最高の運命が待っている。
大部分の人の想念は同じレベルのところをぐるぐる回っているだけで、上に一歩も抜け出せない。
どんな場合においても、強靭な意志力が無ければ何も成し遂げられない。
自己との戦い。魂(己の本体)の毒となることと戦う。徹底した自己監視能力。
「意識の成長」「魂(己の本体)の成長」ということに関して、ほとんどの人間は思いもしなければ、考えもしない。自分自身の存在の意味、存在の目的を知り、理解しようとする人は皆無に等しい。
意識が低いうちは、意識の状態は絶えず変化する。意識は定まらない。しかし一旦意識レベルが高まるとそこから下がることはない。終わりのない意識の成長ができる。
意識が高まると無意味なものに反応することもなく、関心を持つこともなくなる。この世は無意味なものばかりであるということに気づく。意識の低い人たちは、彼らにとってその無意味なものが一番大事であり、生きがいであり、最高に価値のあるものなのである。
意識が高まれば高まるほど、意味の無いもの(人)に反応しなくなる。意識が高まれば、反応しなくてはならないものと、反応してはいけないものとの判断が瞬時にできるようになる。
人間が、自分自身の存在の意味、存在の目的を知り、理解するに至るまでに、とてつもなく長い、険しい人生を繰り返してのち、各々の意識の段階に応じて気づき始める。その時、正にその人の魂(己の本体)の成長へのスタートラインとなる。
魂(己の本体)の準備が出来次第、本当の人生を生きることになる。
あるのは一瞬一瞬変化していく自分の意識、魂(己の本体)の成長のみ。
余計な心配をする必要もなければ、極端に喜ぶ必要も無く、極端に悲しむ必要もない。その人の意識の高さに応じて、物事は展開していくだけである。
良いも悪いも自分で撒いた種は自分で刈り取る。
人生において己が意図的に隠し通してきた悪事も、いつか必ず本人が想像もつかない形で前に押し出され、白日の下に晒される。
意識をどうやって上げるか。やめなさいということをやめる。止めればいいだけ。 捨てればいいだけ。ただそれだけのこと。
反省とは自分を責め裁くことでもなく、後悔することでもない。
一瞬の気づき(反省に一秒以上はかからない)が生き方を変える。自分の運命の軌道修正をする。
一人一人に用意されてないものは無い。知ろうと思えば何でも自分の力で知ることができる。
何を学ぶのか? 何を学んだのか? 一度経験したこと、経験した過ちは2度と繰り返さない。それが学ぶということである。
人間が成長するためのステップとして「過ち」を捉える。
喜びと悲しみは表裏一体。悲しみがあるから喜びも味わえる。
多くの人たちは自分の運命から逃げるために生きている。どうしたら楽な道に行けるか、楽な人生を送ることができるか、というそれが彼らの人生の目的となってしまっている。 同時に、彼らは、本当は今の生活が好きなのである。文句を言っていることが好きなのである。今の生活に不満を言い続けている人生から脱出したいとは本気で思っているわけではない。
あなたは直面する現実から逃げるために生まれてきたのではない。困難に立ち向かうためにあなたが存在し、あなたの人生が存在する。常に存在する「今」を生きることだ。あなたには「今日」しかない。
「無知なる善意」は危険な行為である。しかし人間は全くわかっていない。むしろ最高の行為だと思い込んでいる。
無知からの善意が悪の連鎖を生む。その人を今助けることでその人の魂(己の本体)の成長に繋がるのであれば助ける意味があるが、助けのほとんどはその人の魂(己の本体)の成長を遅らせてしまう。
同じことを繰り返さないための助けがあるべきなのに、無知からの善意はその人の学習能力を削いでしまう。
この三次元の世界「地球」という場所は、未完の世界。人間の目的は、今いる次元からの卒業・脱出である。さらにそこから次の次元に脱出する終わりのない脱出劇。
人は反応しなくていいものに反応している。偽者(にせもの)模造品(本物ではないもの)にすぐ反応する。このバーチャルの世界で一番になっても意味がない。高い次元の本物を一つ持てばよい。
真実を見極めることができない人間は、見栄えのよい、目先だけの一時的な活動には関心を持ち、参加する。より真実性の高い活動、地味で目立たない、長い道のりの活動に関心を持つことはない。
どんなことでも常にトータルで(大局的に)物事を見ないと先が読めない。
口に出す前にその言葉を発した後、どういう状況になるか先を読む。
力を持たない正義は無力であり、簡単に悪に負けてしまう。
たった一つの言葉から無限大の解釈ができるようになる。言葉には無限に広く深い意味がある。しかし、間口の狭い人間は偏った狭く浅い解釈しかできない。
自己弁護、自己防御をしなくなれば運命は瞬時に変わる。
不必要な言葉を言わない。毒となる言葉を吐かない。
自己観察能力を強化する。冷静に自分を客観視することが最も重要である。
魂(己の本体)の成長の最短コース - 想念のトラップに騙されないこと。
人間は強大な受信装置と送信装置を同時に持ち合わせている。ということは、善も悪も区別なく受信して、発信している。
科学的根拠を持って証明されたものは逆に疑わしい。人は「科学的に証明された」という言葉に弱い。それはどのレベルの科学なのか。「科学の段階」は無限にある。
情報の選別 - 自分自身の意識の成長を妨げる情報の排除作業。外部からの無意味な情報に一切反応をしないこと。やがて、己の意識の進化・向上につながる情報だけに反応するようになる。
知性のある善人になる。一般大衆の中で、いわゆるただの「善人」(いい人)と言われる人間には知性が無い。
実行力の無い人間が、何に対しても批判する。自分は行動を起せないし、何もできないから批判をすることで自分をごまかす。
偽善に包まれた真実ほど汚いものはない。宗教家、宗教者、宗教団体、慈善団体などが表に掲げる大義名分に真実は無い。
偽者(にせもの)は、自分が偽者であることを知っている(わかっている)。であるから自分をいかに本者(ほんもの)に見せるか、どうしたら本者(ほんもの)に見えるか、と必死になる。
どんな人がどんな本を書こうと、書き終えた瞬間にそれはすでに過去のものになる。その時代のその時の参考文献に過ぎない。私たちは立ち止まってはいけない。
宗教は「愛」「平和」を前面に出す。それらは具体的な内容を伴わない、美しい響きの言葉に過ぎないが、人々はそのようなものに簡単に騙され、引き込まれていく。
善と悪の存在意味の分からない人間が、声を大にして世界の平和と愛を叫ぶ。
魂(己の本体)の成長を伴わない「平和」、口先だけの「平和」、偽物の「平和」を願うのが宗教者、偽善者たち。
愛、平和、赦し、正直、反省、善と悪。これらは末端の世界の思考体系の中での言葉。
「平和」を願わない人はいない。平和という言葉を出す人はどういう平和のことを言っているのか、実現可能な具体性を持った説明ができる人はいない。平和の意味も分からず、多くの人の描く平和は、「病気や貧乏が無い世界」「お金に困らない生活ができる世界」「悩み、苦しみ、悲しみの無い世界」のような、ただ漠然とした「絵にかいた餅」の平和を願っている。
人は本当の意味での「平和」を全くわかっていない。「平和」を目的にすることでもなく手段にするものでもない。人間が真剣に意識を高め上げて、己のエゴを取り除くことができない限り、この世が「平和」になることは絶対に無い。
「愛」「平和」という言葉は重く、安易に使うことはできないが、偽善者は簡単にその言葉を使う。
偽善者は言葉に酔う。言葉に酔っているのが一番楽だから。言葉遊びをしているだけ。
偽善者だから善人の振りができる。善人を演じることができる。
多くの人の人生は、無計画の計画であり、出発点が偽善である。偽善で人生が始まり、偽善で人生が終わる。
三次元の世界の地球においては、労働の対価はお金であるが、高次の世界では、意識の成長(意識の向上)の対価として魂(己の本体)の進化が得られる。
「無反応」と「無関心」には決定的な違いがある。自分達を貶めるくだらないものには無反応であることが大切。しかし人類の意識の成長に無関心であってはならない。
人間は意味のないことに反応し、意味のないことだけを大事にしてきた。
人間は意味のない幸せ、意味のない苦しみや不幸の中で生きている。
人間の出す「悪想念」のエネルギーをまとめると「核エネルギー」に匹敵するほどの破壊力を持ったものになる。人間一人ひとりが24時間出し続ける「想念」そのものが高まらない限り、そして高い意識によって浄化されたものでない限り、そのエネルギーは破壊のエネルギーとなる。
現実を直視せず、逃げることしか考えない人間は、自分にとって都合の悪いことは不条理なこととして片付けてしまう。逃げることしか考えない。そういう人は魂(己の本体)の成長はできない。
自分の言動に責任を持てない人は、無意識の態度や行動、そして無意識に発する言葉に無責任さを示す。
実践に結びつかない論理では意味がない。
結果が出ないということは、まだ理論のみに走っていて実践はしていないということである。
過去の体験を後悔したり反省するということは、2度と同じ過ちは繰り返さないための参考資料として存在するだけであって、自分や相手を責めたり恨んだりすることではない。
運命を変えなくてはならない一番大事な時に、今まで自分の出してきた想念がそれを阻止してしまう。
二度と戻らない意識レベルに到達しなければ、何度でもすごろくゲームのような(進んでは戻る)人生を送ることになる。
すごろくゲームの人生(何度でも元に戻って同じことを繰り返すような安易な人生)の延長線上の努力では意味がない。自分の弱点を見抜き、それを克服しない限り、成長はできない。
自分の人生において、楽しみも、悲しみ、苦しみの経験もたった一度の体験で十分だとい言える人間になる。 一度の体験でその場を卒業するには意識を高める努力をする以外にない。
急ぐということは一切の無駄を省くということ。
この世は正に「光」と「闇」の争奪戦。
その人の持っているビジョンによって、その人の人生が決まる。
どんなに正しいことを言っていても、その人の感情がどうなのか。感情想念がどこから(どのレベル)のものか。
絶えず、全体で物を見て全体で答えを出す。
答えは無限にある。しかしその人の意識レベルでの答えしか出せない。
人は比較対照物がないとその存在意味が理解できない。
人は自分独自の目標がないから常に不安でしかたがない。
人間の心の中は「疑い」「不安」「嫉妬」で渦巻いている。
人類が「時間も空間も本来存在しない(していない)」という意味を、真に理解することは永遠にない。時間・空間そのものがわからない、わかっていない。
「変化」と「進化」は次元が違う。「変化」は横に移動するだけ「進化」は上に行って戻ることは無い。
全生命体にとってプラスになるものを創造できるか? 魂(己の本体)の成長にプラスになるものを創造できるか?
義務と責任に目覚めることが第一歩。
理解力を持って今自分が置かれている状況を打破するということは本当に難しい。しかし、真に理解できれば一瞬にして運命は変わる。
人間は朝目覚めた時から想念のトラップに嵌っている。高い次元の想念か、自分の出した想念か、トラップの想念か、それを見極めることができないまま一日が始まり一日が終わる。
人類はタイムリミットが来るまで同じことを繰り返す。
人類は遊びすぎた。あまりにも長い間人類は遊び続けてきた。
限りなく100%に近い人間は24時間感情的な想念のワナに嵌ったまま人生を送っている。
人類の成長を止める最大のワナである「娯楽」から学ぶものはない。
「娯楽」を苦痛に感じるようになるまでに意識を成長させるには相当の時間がかかる。本人たちが飽きるまで好きにさせておくしかない。
人間が成長していくプログラムの中で、何を捨てて何を選んで何を学んでいくか。
学んで、体験して(経験を積んで)、実行する。
人間は自分に都合のいいことは信じる。少しでも自分に都合の悪い運命が来ると、「神も仏もあるものか!」とすぐ疑い出す。
人生において直面する問題は、自分がより高い次元に成長していくための「一通過点」における経験としてとらえる。
ようやく 己の生命の目的が「意識を上昇させる(魂を成長させる)」ことであることに気づき、その生命のたどる道は、一つの頂上を極めると次の頂上が見えてくる、という果てしない進化の道程であることを知る。
種子は、暗い土の中に置かれ、十分な力を養って生命を吹き出す。ちょうどそのように、人もやがて霊的生命を吹き出すために、予めこの暗い地上(三次元の世界)に置かれて、人間としての経験を積み重ね力を蓄える。しかし、苦しんでいる時はそのことはわからない。後になって過去を振り返ってみるとそれが初めてわかる。その場そのことだけで人生を判断してはいけない。
人生の苦しみも、魂(己の本体)が上へ上がっていくための経験であり、その悲しみ苦しみを超えた時、精神力が強化される。
困苦・障害・不利益・悲しみ、といったものはすべてその人の魂(己の本体)にとっての試練である。それを克服することによって、魂(己の本体)は浄化され、強くなり、深みを増し、高く飛翔できるのである。
人生のあらゆることを「魂(己の本体)の成長」に生かすことができる。魂(己の本体)に戦うべき困難が多ければ多いほど、その人の魂は強大となり偉大となる。逆境によって人格は試練を受け、涙と悲しみによって魂(己の本体)は力を得る。
全人生を「魂(己の本体)の成長」に賭けた(生きた)人には誰も敵わない。
どこまでも成長して進化・向上していく喜びの中に生きるか、どこまでも堕ちていく苦しみの中に生きるか、それは本人の自由意志である。
Updated on 1 October 2024.
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代表
須佐 章子
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